2013年8月19日月曜日

米国生活その後

ふと気づいてみれば、4月1日に本格的にこちらに移動してから、もう5か月が過ぎようとしている。受信箱に日本からのメールがいきなり少なくなったと思えば、お盆だったんだと気づく。こちらはあと1週間で、新学期が始まるので、皆が戻ってきて慌ただしくなると思う。私は、ちょうど木曜日の夜中に体調を崩し、丸3日ほど寝ていた。そこで、少し元気になってきたし、かといって、仕事をすると悪化しそうなので(←言い訳)、ブログを更新しようと思った。今回の体調悪化は、5月初めに中国から帰国する直前になった症状とよく似ていて、たぶん、冷えと胃が荒れたことによるものだと思う。今回ので、前回の体調不良が中国の食事などによるものでなかったことが分かったので、安心した(本当に安心していいのかはよくわからないけど)。ただ、以前から胃の調子が悪くなることはあったものの、今回の2回のような酷い症状にはなってなかったので、少し気を付けないといけないと思った。もともと冷え性なので、冷えにはより気を付けて対策して、あとは、空腹にコーヒーやお酒を流し込むのは控えようと思う。ミシガンはもうすでに朝と夜が冷える。日中は暑くなることもよくあるけど、一日で15度近く温度変化があったりするのでしんどい。極め付けに夏中辛かったのは、研究棟が冷蔵庫のように寒く、自分で調節不可能なところである。真夏は外と中の気温差が激しく、室内ではフリースを着て耐えていたのだけど、最近は外が涼しくなって少し油断してしまったんだと思う。あとは、研究が思うように進んでいないのが、ストレスになっていたのかもしれない。進んではいるのかもしれないけど、まだ成果になっているものが一つもなく(本当に成果になるのか不安なものもあり)、どれも中途半端で(それをできていないのは自分自身のせいでもあり)、少し根を詰めすぎたのが問題だったのかもしれない。何度か海外での生活をしてきて、自分自身に言い聞かせているのは、「思ったようにことが進まないのは仕方ない」、「オンとオフの切り替えはしっかりする」、「休みはしっかりとる」、「がんばらないと達成できない目標の8割の目標を作る」とごく当たり前のことなんだけど、私はある時を境に、ある限界がくると、突然体調に異常をきたしやすくなったので、海外では必要以上にそうしようと思っていた。でも、人間、2度、3度と繰り返すようで、今回もまた、やってしまった、と思った。そう思った時にはもう遅く、吐いて、一人でのた打ち回っていた。海外の一人暮らしでの体調悪化はやはりしんどい。ストレスがたまってるときの方が暴飲暴食になりやすいから、もうちょっと考えて自己管理しようと思う。とりあえず、冷え防止と胃腸の改善のためのサプリを飲み始めようと思う(一つは飲み始めた矢先に起こったんだけどね)。持続的に、効率的に、仕事をこなす、自分なりの方法を探るのがとりあえず1年目の目標なんだと改めて考えさせられる出来事でした。

2013年7月6日土曜日

行動するということ

以前から思っていたことをここに書きたいと思う。これを読んで不快に思う方は少なからずいると思う。以下の話は無知ゆえのただの戯言なので、気にしないでいただきたい。

これを書くきっかけとなったのは、ウナギの漁獲量の減少に関する多くの方のSNS(ツイッターやFB)での「もうウナギを食べません」という発言であった。 これはここ数日のことでなく、今年になってからよく耳にした(目にした、と言った方が正しいか)。私はこの発言に疑問を呈する。食べなければ、または、買わなければ、いなくなったウナギは戻ってくるのだろうか?ウナギを守ることにつながるのだろうか?まわり巡って、そうなる可能性がない、とは言わない。でも、その前に、真っ先に被害を受けるのは、小売業者、鰻屋といった人たちではないだろうか。彼らの生活のことを考える必要はないのだろうか。

「ウナギを食べない」という言葉を聞いたとき、私は、かつて、ある熱帯の島で見た日本人の保護活動グループのことを思い出した。彼らは、分断化された動物たちの生息地をつなげるために、土地を買い、森をつなげようとしていた。日本からボランティアで集まり、個体数が減少する動物たちの生息地を守ろうとする行動は称賛に値するだろう。そして、多くの日本人が、その美しい行動に賛同し、寄付をし、購入された土地は守られていく。では、購入された土地はいったいどんな土地だったのだろうか。私は正確な割合などは知らないが、その土地には現地住民が国から支給された焼畑用の土地を含んでいたと聞いた。そして、全体の土地のうちわずかな土地を焼畑農業のために残し、残りを購入したそうである。子供の教育などにすぐに現金が必要な現地住民の方々には寧ろ願ってもない話だったのかもしれない。しかし、残されたわずかな土地で持続的に伝統的な焼畑農業をすることは不可能だろう。国が支給した焼畑農業用の土地は守られるべきものではないのだろうか。現地住民たちの持続的な生活よりも、動物たちの生息地は重要なのだろうか。それらは比較できるものではない。正当な取引なのかもしれないが、完全に立場の違う人々の間に正当な取引など存在しないと、私は考える。何かを行動に移す時、利益とともに不利益も同時に考える必要がある。

今回のウナギの話と上記の話は違うと思われる人が多いかもしれないが、私には根底にあるものは同じように感じられた。自分自身の意見を持ち、行動するということはすばらしいことだと思う。自分だけでなく、次の世代、さらにその先まで思いやることは、簡単にできることではない。ウナギは守る必要がある。その通りだと思う。ただ、同時に、その美しい行為の裏側には、常に、不利益を被る人がいることを忘れないでいただきたい。あなたが今しようとしているその行動は本当に最善の方法なのだろうか。毎日を必死に生きている人たちの生活を脅かしてまで行うべき行動なのだろうか。流通システムや漁獲の制度を変えない限り、食べられずに残ったウナギは廃棄されるだけなのではないか。そうならば、それらを変えるための行動の方が効果的ではないだろうか。勿論、何が正しいのかなんて私には分からない。

2013年5月28日火曜日

米国ミシガン州立大学での新生活


年初め(終わり?)に書いてからすでに5か月も更新できずにいました。ご存じの方も多いと思いますが、4月1日から米国ミシガン州立大学にて海外特別研究員として2年間滞在することになりました。お近くにお寄りの際は是非お声をおかけください。

新生活とはいえ、昨年の10月から2月中旬まで滞在していたこともあり、2月の帰国直前にアパートの契約をしてから帰国できたので、突然何も知らないところに渡航することに比べれば簡単なスタートだったのだと思います。しかし、始めの1か月は個人的にはいっぱいいっぱいでした。5月初めに中国でワークショップをしたのですが、初めて5日間一人でteachingする、ということで精神的に結構圧迫されてました。終わってみれば、そんなに気を負う必要がなかったのだと気づくのですが、直前まではそういう風には考えることができませんでした。何事も経験が必要ですね。

1月末に補欠合格の知らせを受けてからは、特別研究員の辞退、DS2019の発行手続き、ビザの申請、学会、札幌から実家への引っ越し、渡米、中国でのワークショップ、友人宅からアパートへの引っ越し(契約開始が5月中旬だったため)と、立て続けにバタバタしていました。ビザなどの申請については結構危険なスケジュールでしたので、別にまとめれれば、と思っています。あと、ツイッターは諸事情により今は中断しています。このままやめるかもしれないし、突然復活するかもしれませんが、今のところは未定です。

そういえば、4月1日にこちらの空港についてメールをチェックしたところ、D論の3章目が無事受理されたお知らせを受けました。投稿から15か月だったので、とてもうれしかったです。また、初めての米国雑誌なので、米国滞在を歓迎されているような気がして(勘違い?)うれしかったです。現在、まだpreprintですが、online firstになったら再度お知らせします。

こちらではセメスターは終了し、もうすでに夏休みが始まっているのですが、私の研究計画はまだぶらついている感じが否めず(いつものこと)、結構不安です。ラボのメンバーはもうすぐ皆フィールドやヨーロッパへと旅立ってしまうので、それまでにある程度安定させられれば、と思っています。6月末にはコスタリカで行われるATBCの50周年大会で口頭発表をする予定です。中米は初めてなので、楽しみです。

とりあえず、当面の目標は、車の免許の取得と研究計画をしっかりさせることですね。



写真は中国最大の植物園 Xishuangbanna Tropical Botanical Garden (XTBG) で行ったTree Architecture Workshopのグループ写真です。5月8‐12日

2013年1月3日木曜日

2012年を振り返って

明けましておめでとうございます。

気がつけば、もう2013年です。歳をとると時間が過ぎるのが早く感じるようになる、とよく聞きますが、ここ数年は(もう6年以上前の)学部生だった頃よりも、毎日がゆっくり過ぎているように感じる出来事が多かったように思います。最近特に感じるのは涙腺が年々弱くなっているということで、映画などを見てもすぐに泣いてしまい、飛行機などでは結構気まずい思いをしています。ここ数年、辛いことが多く、もう、これ以上辛いことはないだろう、といつも思うのに、それを越えるような辛いことが起こる、ということがよくありました。もしかするとどんどんと敏感になっていってるだけかもしれません。ただ、辛さを感じることに敏感になるのと同時に、人の優しさや有難さも敏感に感じるようになりました。最近の私は、周りの人に恵まれていると、よく感じます。私のこれまでの人生を振り返ってみると、周りの人の協力なしに自分だけで成し遂げれたことなど何もない、と思えるほどです。それは、落ち着いて考えてみれば、はっきりと簡単にわかることなのに、近くにいることが当たり前になったり、自分の立ち位置が良く分からなくなると、見失ってしまうものだと思います。「一期一会」という言葉をよく耳にしますが、どのような人と接する時も、もうこの人と会うのは最後かもしれない、という気持ちで接しなければならない、のだと思います。昨年の私は、まだまだ子供で、多くの人を傷つけてしまいました。「一期一会」という言葉を見失わない様に、人と関わっていきたいと、反省しています。


今年はアメリカのミシガンで年越ししました。大晦日はホームパーティに呼んでもらい、MSUのPhDの学生たちと一緒に新年を迎えました。集まった家は、大きなリビングに暖炉のある家で、暖炉の前におかれたクラシックなアームチェアに座り、白い帽子をかぶり、2012年で一番素敵な出来事を交代で話しました。私にとって、2012年の一番素敵な出来事は、ここミシガンに来て、とても素敵な仲間たちに会え、同じ時間を共有できたことです。2011年から2012年への年越しは台湾の花蓮にいました。天候が悪かったり、研究室に学生がいなかったり、生活自体がしにくいなど、私のこれまでの海外での生活の中で、一番苦労した時期でした。しかし、MSUに来れたのは、その台湾にいた時に、今の受入教員であるNateが私の滞在先の研究室にセミナーに来たからです。それも、台湾にいる親戚を訪ねるついでのセミナーで、彼は奥さんが観光にでている半日だけラボに顔を出してくれたのでした。私の人生は、このような偶然的な人との繋がりの上で成り立っているのだと、よく感じます。たぶん相対的には、辛い時期もあり、また楽しい時期もあるのですが、それぞれが存在することで「今」があるのだと思います。今年は、その一つ一つを大切に、またその繋がりをしっかりと感じながら、生きていきたいと思っています。また、私との繋がりが誰かの人生の中で、その人の人生に少しでも、ほんの少しでも良いものとして繋がれれば、幸いだと思っています。

長々と取りとめなく書きましたが、今年30歳になるというのに、いつまでたっても子供の頃に自分が描いていたような「大人」にはなれそうもないです、笑。こんな中途半端な人間ですが、今年も一年、お付き合いいただければ幸いです。今年もよろしくお願いいたします。


2012年10月30日火曜日

アメリカ1カ月経過

またずっと更新せずにもはや10月も終わろうとしてます。毎回、もうちょっとこまめに更新すると書いているので、もうそういった目標はもう書かないことにします。

実は10月から(正確には9月30日から) アメリカに来ています。色々な国に滞在してきましたが、実はトランジット以外でアメリカに来るのは初めてでした。英語が母国語の国に長期滞在するのは初めてなので、いつもとは異なる不安を持っての渡米でしたが、乗り継ぎのシカゴ空港でその不安は一切なくなりました。ラッキーだったのだと思います。分からないことは片っ端から周りの人に聞きましたが、皆さんやさしく、気さくに、時にはジョークもまじえて返してくれるので、とても助かりました。ランシングについてからも、滞在先のラボの学生が迎えに来てくれ、彼女の家に泊めてもらうなどし(そのままルームメートも交えて酒盛り)、そして、初めてあったとは思えないようなラボメイト女子二人に囲まれ楽しい日々を過ごすことができています。

研究については、日本で全然進めることのできなかった台湾での仕事のやり直しにとても時間が取られてしまい(PIが今月忙しかったのも重なり←言い訳)、こちらでの仕事がまだ外枠しかできていないのが悔やまれます。あとは、昨年12月に投稿した論文のリバイスを未だにやっていたり、査読をしたり、と相変わらず仕事が遅い感じで日々生活しています。

実は、この場を借りて、報告したいことが一つあります。ご存じの方も多いかもしれませんが、先々週末に学振の結果がでました。国内は内定を、海外の方は面接の末、補欠をいただきました。海外の方の繰り上げが1月初めまでに出るか、によって、行き先が変わるかも知れませんが、とりあえず、4月からはどこかには所属できるようになると思います。申請書を見てくださり有意義なコメントをくださった皆さん、学会やどこかで会うたびにお酒を飲みながら愚痴を聞いてくださった皆さん、凹んでる私にネットを介してやさしい言葉をかけてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

毎日、人に迷惑をかけながら生きてる中で、自分は本当に恵まれているな、と感じることが多々あります。とりあえず、今のところ、衣食住に困らずに好き勝手に生きられているのはまさにラッキーだったとしか言えないと思います。ただ、はっきりと分かるのは、ラッキーはある程度は自分から掴みに行くものだということです。誰かと出会った時にその関係を今後も続けれるようにするのか、それともそこまでのものにするのかは私(あなた)次第です。出会いを大切にしたいと、自分の周りにいる(いてくれる)人をもっと大切にしたいとよく思うのですが、それが上手くできない自分にもどかしい気持ちで日々を過ごしています。もっと器用に生きられれば、何かが変わるのかもしれませんね。

ここミシガンに来たすぐの頃は紅葉がとても美しかったのですが、今はもう落葉し、木枯らしが吹き、冬が訪れようとしています。ここは空がとても美しいです。綺麗な朝焼けは何度か見たのですが、夕焼けはずっと見れませんでした。先週金曜日に初めての夕焼けを、そして、今日2度目の夕焼けを見ました。全然異なる美しさでしたが、真っ赤に染まる空はただただ美しかったです。





2012年6月27日水曜日

論文の読み方 revisited?

最近、帰国してから(ちょっと台湾戻ったりしてたけど)、ゼミなどで周りの学生を観察していて、学生から研究に対する楽しさや面白さを感じられない(感じられにくい)ということをとても残念に思った。そもそも、大半の学生は何かしらの興味を持って大学院に入学してきたはずなのに、せっかくの研究生活で研究に対する面白さを感じられなければ、何のために大学院にきたのか、よく分からないような気がする。もちろん学生によって、事情はそれぞれだと思うが、私はそれが研究そのものに対する理解力の低さ、に起因しているのではないか、と感じている(少なくとも私の周りでは)。だから、他の人の研究発表を聞いていても面白さを理解できないし、自分自身のやっている研究の面白さもよく分からない。研究室内でのPI (指導教官)とのdiscussionや普段のゼミでそれを学べるのが理想的であるが、常にそのような環境が整っているとは限らない。

特に私の知ってるマクロ生態学の分野では、「伝統的な放置プレー」が存在する場合が多く、とりあえず野外に行って、なんとなく気になっているテーマのデータをとって、自分のやってる研究の具体的な立ち位置とかよく分からないままに、さらにデータを取り続ける、という状態の学生が多い(これは私の経験的な話で、どこの研究室にでも当てはまるものではないが)。たまに話す指導教官や先輩からはこのデータも取った方がいいというアドバイスをもらい、またデータを取る、という風に。ここで、一番危険なのはデータ取りは着実に進んでる感じがするので、まるで研究そのものがきちんと進んでるような気になるということ。この状態だと、論文を書くという、いざという時に、まずintroductionを書けない(学振申請書でも)。なぜなら、自分の研究の立ち位置やオリジナリティがよく分かってないからである。もちろん野外での観察とともに時間をかけてそれを身につけていくというスタイルが伝統的なのだが、そのやり方では効率的に成果を上げて(論文を出して)、学振や次のポジション、研究費を獲得するという現在の競争に勝ち残るのは難しいだろう。というか、その前に学位が取れず、6年とか博士課程をすることになることも多々ある。

自分の研究テーマに対し、それが生態学のどのようなbig questionに挑もうとしているのか、このデータからどのような疑問が明らかになるのか、という根本的なものを常に考えておく必要がある。全く自慢にはならないが、私は自分の研究に対して、このような考え方を上手く理解できていなかった(何となく理解してるつもりだったけど、上手く書けなかった)。だから、一本目の論文を書くのに恐ろしいほど時間がかかったし(今も遅いけど)、もしかして、あのままデータだけを取り続けてたらもう研究を続けていなかったかもしれない。じゃあ、今はできてるのか、というとそれも怪しいけど(笑)。ともあれ、私は幸運にもD2の時にオランダの大学に短期滞在する機会を得て、そこでどうやって論文を書くのかをとても建設的に教えてもらうことができた。もちろん、一人で全部できる学生もいて、そんな人から見れば、何を甘えたことを言ってるんだ、と思うかもしれないが、私はすべてオールマイティにできる人だけが研究に関わっていればいいとは思わないし、研究の早い段階で(学生たちが)、研究に対する面白さを理解するための方法を効率的に教わることは重要だと思っている。

では、どうすればいいのか、というと、研究室の環境や指導教官の方針はどう頑張っても簡単に変えられるものではないので、そこを嘆いていても仕方ないため、論文を読む時の姿勢・考え方を知ることで、論文から研究の見方を学ぶということを勧めたい。同じ論文を読むにしても、読むときの心構えが違えば、得られるものは格段に良くなると思う。あとは学会や研究会などの機会に色々な研究者の方と自分の研究について話をして、どこが分かってないかを再確認するのがよいと思う(飲みの席の、どんな研究してるの?というのに、答えるというのが一番勉強になります)。

以下の内容は、以前、とある方がWeb上で公開されていた研究初心者に対する論文の読み方のページから抜粋したものである。著者が一身上の都合で公開を止めたものを、私の文章として公開するならば問題ない、というお許しをいただいたので、ここに公開したいと思う(改訂してくれ、と言われたけど、改訂する部分が見つからなかったのでそのまま載せてます。めんどくさいからじゃないですよ?、笑)。ここでは論文の読み方について着目しているが、結局のところ、研究発表を聞く時も自分が発表する時も同じような考え方が基盤にあると思う。

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論文を読むときに研究初心者が最も注意すべき点、それは、

イントロダクションの読解に全力を注ぐべし

ということ。あるいはこれに尽きると言っても過言ではない(というのは過言かも)。

そもそも研究というのは目的があって始めるものである。では研究の目的とは何か?
よくイントロの最後に「本研究の目的は○○を明らかにすることである(英語だと、The objectives of this study are ○○ など)」と書いてある。

確かに、○○を明らかにしようとした論文であるのは間違いないだろう。でも研究初心者がもっと着目すべき点は、

「なぜこの研究者が○○を明らかにしようと思ったのか?」

ということだ。

よく「あなたの研究の意義は何ですか?」と問われることがある。研究の意義、というのは研究初心者にはなかなか把握するのが難しいが、簡単にいってしまえば、「この研究をやって、我々の自然への理解がどう深まるの?」ということだ。しっかりと目的意識をもって行われた研究の論文なら、こういうこともちゃんとイントロに書いてある。

例えば、
「Xという現象のメカニズムについて、これまでにこんな研究があってこんなことが分かっている。でもこれまでの研究はYという要因を考えてこなかった。しかし○○という理由から、YがXという現象に影響していることが予測される。本研究ではこのような視点からXという現象を明らかにする。」(このような説明の後に、「本研究の目的は・・」と続くことが多い)

この太字のところが特に重要で、このような視点がこの研究者の新しい、オリジナルなものの見方である。この場合だと、いままで見過ごしていたYという側面を考えることで新たな理解に達するかもしれない、未解決の問題がクリアできるかも知れない、ということだ。

こういうことが論文(研究)のオリジナリティーである。

くれぐれも「こういう実験をしてこういう結果が得られた」ということ自体を論文のオリジナリティーと思ってはいけない。 また、「○○という現象がAという種では観察されたがB種ではまだ分かっていないので調べた。」という理屈。レベルの低い雑誌にのる論文にはこういうイン トロを書いている人がいるし、修士論文発表会でもちょくちょく見かける。しかしこのような研究にもオリジナリティーが認められることはない。「これまでに A種で分かっている現象をB種で調べることによって、生物学上のどのような問題の解決につながると予想されるのか」ということを考える必要がある。

さて、イントロで問題設定とそのいきさつがはっきり述べられていれば、「確かにその問題設定はいままでにない新しいもののようだ」とか「そんな問題を明ら かにしても生態学的意義はないんじゃないの?」なんていう判断はある程度は可能である。さらに「じゃあその問題を明らかにするのにどんな実験が必要か? (実験計画が設定した問題に即しているか?)」とか、「結果の解釈は客観的・論理的か?」とかいうようなことを批判的に読んでいくのもさほど難しくはな い。

逆に問題設定のいきさつが理解できていなければ、その後の方法・結果・考察で述べられていることも理解できない。(英語を訳せることと内容の理解は全く別物である)

アブストラクトだけを読んで論文の意義が理解できるようになるまでには相応の知識と経験が必要である。最初の内はなぜこのような問題設定に至ったのかをイントロダクションからしっかり読みとっていくようにしよう。EcologyやEvolutionといった、いわゆる“一流誌”に掲載されるような論文はたいていこういうことがちゃんと書いてある。

逆に言えば、「なぜこのような研究をやったのか」ということがはっきり述べられていないような論文は、だいたいは程度の低い論文であるとみなして間違いない。あるいは自分の知識レベルが低くて問題を設定したいきさつをくみ取れない場合。いずれにしてもその段階ではその論文を読んでも得るところは少ない(研究者本人の問題意識とは別に、その論文のデータそのものから何らかのヒントを得ることはあると思うが)。

2012年6月1日金曜日

2012年ももうすぐ半分終了

昨年10月はじめに台湾に行ってから、全く更新できないまま(2月に微妙に更新してますが)、半年以上も経ってしまいました。昨年からの動向を簡単に説明すると、

2011年10月初旬~12月中旬 in 台湾・花蓮
→ 12月中旬1週間一時帰国(札幌のアパートを引き払う)
→ 12月下旬~3月中旬 in 台湾・花蓮
→ 大津・生態学会 → 雲南・ATBC meeting → 石川(帰省)
→ 4月中旬~5月初旬 in 札幌
→ 5月初旬~中旬 in 台湾・花蓮
→ 5月中旬~現在 in 札幌

という感じでした。花蓮の冬は天気も良くなかったこともあり、数年前に発症した過敏性腸症候群が悪化したりとか、凹みがちだったり、とか昨年からあんまりいいことがなく、悪循環のまま、過ごしていた感じでした。そしたら、あっという間に、6月。反省です。

同時に、何もなく、一人で過ごすことが多かったためか、色々と考えることができました。あと、びっくりするくらいやさしい人たちにいっぱい出会いました。とりあえずは、もうちょっとこまめに更新して、やりたいことを一つずつこなしていきたいと思います。

最近色々な言葉を見なおしています。まぁ、主に少佐や荒巻部長の言葉だったりするのですが(笑)。昨日、石井ゆかりさんの「星栞」を買いました。私は昔から、人並みに星占いなどは好きで、朝のテレビなどで見たりしてました。ただ、彼女の言葉を見るようになってからは、それがまるで、とても神聖なものであるかのような印象を受けるようになりました。何よりも、感覚的にその美しさを受け入れることができるのです。落ち込んでいる時や疲れたときに彼女の星占いを読むと、スッと何かが抜けて、新しい何かが自分の中に入ってくるような気になります。

実は、同じような実経験を先日しました。別の講演が目的で参加したセミナーで偶然最初に発表していた方の研究がとても興味深く、講演後にお話しする機会を得ることができました(もちろん飲みの席で)。友人からすごい人だ、という噂は聞いていたのですが、話してみて、驚くばかり。研究に対する姿勢、生命に対する考え方、理解の方向性、バイタリティ、人とのコミュニケーションに至るまで、ただただ驚かされました。こんな人がいるなんて、という気持ちでいっぱいでした。同時に、今まで自分の中でずっとつっかえていた何かが、消えてなくなったような気もしました。一期一会と、よくいいますが、このような人と自分の人生の中で出会えたのは幸運だったと思える、瞬間でした。不思議なことにこの二日間、ここ数年悩まされていた腹痛もなくなりました(これはもう少し様子を見てみないとわかりませんが、笑)。なぜか、再来週に飲みに行く約束もしたので、また色々と話を聞かせてもらおうと企んでます。

自分自身も、少なくとも、この人と出会えて悪くなかったと、できれば、会えてよかったと思われる人間になりたい、と思いました。