2013年7月6日土曜日

行動するということ

以前から思っていたことをここに書きたいと思う。これを読んで不快に思う方は少なからずいると思う。以下の話は無知ゆえのただの戯言なので、気にしないでいただきたい。

これを書くきっかけとなったのは、ウナギの漁獲量の減少に関する多くの方のSNS(ツイッターやFB)での「もうウナギを食べません」という発言であった。 これはここ数日のことでなく、今年になってからよく耳にした(目にした、と言った方が正しいか)。私はこの発言に疑問を呈する。食べなければ、または、買わなければ、いなくなったウナギは戻ってくるのだろうか?ウナギを守ることにつながるのだろうか?まわり巡って、そうなる可能性がない、とは言わない。でも、その前に、真っ先に被害を受けるのは、小売業者、鰻屋といった人たちではないだろうか。彼らの生活のことを考える必要はないのだろうか。

「ウナギを食べない」という言葉を聞いたとき、私は、かつて、ある熱帯の島で見た日本人の保護活動グループのことを思い出した。彼らは、分断化された動物たちの生息地をつなげるために、土地を買い、森をつなげようとしていた。日本からボランティアで集まり、個体数が減少する動物たちの生息地を守ろうとする行動は称賛に値するだろう。そして、多くの日本人が、その美しい行動に賛同し、寄付をし、購入された土地は守られていく。では、購入された土地はいったいどんな土地だったのだろうか。私は正確な割合などは知らないが、その土地には現地住民が国から支給された焼畑用の土地を含んでいたと聞いた。そして、全体の土地のうちわずかな土地を焼畑農業のために残し、残りを購入したそうである。子供の教育などにすぐに現金が必要な現地住民の方々には寧ろ願ってもない話だったのかもしれない。しかし、残されたわずかな土地で持続的に伝統的な焼畑農業をすることは不可能だろう。国が支給した焼畑農業用の土地は守られるべきものではないのだろうか。現地住民たちの持続的な生活よりも、動物たちの生息地は重要なのだろうか。それらは比較できるものではない。正当な取引なのかもしれないが、完全に立場の違う人々の間に正当な取引など存在しないと、私は考える。何かを行動に移す時、利益とともに不利益も同時に考える必要がある。

今回のウナギの話と上記の話は違うと思われる人が多いかもしれないが、私には根底にあるものは同じように感じられた。自分自身の意見を持ち、行動するということはすばらしいことだと思う。自分だけでなく、次の世代、さらにその先まで思いやることは、簡単にできることではない。ウナギは守る必要がある。その通りだと思う。ただ、同時に、その美しい行為の裏側には、常に、不利益を被る人がいることを忘れないでいただきたい。あなたが今しようとしているその行動は本当に最善の方法なのだろうか。毎日を必死に生きている人たちの生活を脅かしてまで行うべき行動なのだろうか。流通システムや漁獲の制度を変えない限り、食べられずに残ったウナギは廃棄されるだけなのではないか。そうならば、それらを変えるための行動の方が効果的ではないだろうか。勿論、何が正しいのかなんて私には分からない。

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